(原語の歌詞をつけるのが親切だとは思いますが、著作権の問題があるので、各自自己責任で調べてください)
言わずと知れたビートルズ(ジョン・レノン)の名曲である。原題は"Norwegian Wood"だが、これを、日本のレコード会社が表題のように誤訳してしまった。
この誤訳は広く知られた話題であり、ウィキペディアなどでも詳しく論じられている。 "wood"については、複数形のwoodsになれば「森」という意味になるが単数形だと「木」や「材木」の意味しかない、いや、単数でも森の意味で使うこともある、などと様々な議論があるが、一般論はともかく、この歌の歌詞では、"She showed me her room , isn't it good , Norwegian wood?"と歌われているのだから、部屋の内装を言っていることは、素直に読めば明らかだ。家具だという説もあるが、椅子もない部屋で床に座ってワインを飲んでいるぐらいだから、あえて家具を自慢することはないだろう。
この誤訳について、張本人である元東芝レコードディレクターのT氏が、インタビューに応じているのをWEB上で読んだ。「あれ『ノルウェー製家具』ですよ。そんなもん知るかってことですよ。パッと聞いたら『ノルウェーの森』って、浮かんだんですよ。」「仮に間違えていたとしても、僕のつけたタイトルでもって歌を聴けば、ひとつの自分の詞の世界が浮かぶはずなんですよ。僕はそのほうを重要視したんですよ。彼・彼女のイメージの世界を、僕が手助けできたらなと。それで、その歌がより良くなればいいなと思ったんですよ。」
間違えたことを深刻に反省しているならまだしも、後段では「いいことをした」ような言い方である。「僕のつけたタイトルでもって歌を聴けば、ひとつの自分の詞の世界が浮かぶはずなんですよ」なんて言うが、浮かんだ世界はジョン・レノンの世界ではなくなっている。自分にそんな改竄をする権利があると思っているのか。ノルウェーの針葉樹林を思い浮かべながらこの曲を聴いている人(たとえば村上春樹の小説のヒロイン直子さんは、「この曲を聞くと、深い森の中で迷っているような気持ちになるの」と言っている)に対する冒
であり、森のことを言いたかったんじゃないジョン・レノンへの冒
であることが、こいつには分からないのか。「その歌がより良くなれば」なんて、ミュージシャンでもないのにうぬぼれもいいところだ。ビートルズと共同作業をしているような、身の程知らずの幻想を抱いていたのじゃないか。しかも、前述のように、歌詞を軽くでも読めばこんな間違いをするはずもないのだ。手を抜いて片づけた結果だろう。
ところで、村上春樹は小説の題名をなぜ「ノルウェイの森」としたのか。ビートルズの曲が、主人公が過去を思い出す重要な鍵となっているためだろうが、小説の執筆時点で、作者がタイトルの誤訳に気づいていなかったのは確かだろう。知っていれば少なくとも前述の直子の科白は書かなかったはずだ。
村上氏自身が、この件についてエッセイ「ノルウェイの木を見て森を見ず」(「村上春樹雑文集」(新潮社)所収)を書いている。その内容は、無理な理屈をこねまわした末に、「Norwegian Woodは正確には「ノルウェイの森」ではないかもしれない。しかし同様に「ノルウェイ製の家具」でもないというのが僕の個人的見解である。」と苦しい結論を付けているものである。翻訳家としても活躍している氏にしてみれば、「誤訳をうのみにして確認せずに書いてしまいました」などとは言えないのだろう。
村上氏が、この誤訳の一番の被害者かもしれない。ノーベル賞が取れなかったら、あのディレクターの責任だ。
以下は蛇足である。
この歌詞にはほかの部分でもいろいろな解釈があるが、ここに私は新たな説を付け加えたい。「彼女=鳥」説である。
この曲の原題には(This bird has flown)という副題がある。曲の最後の方で、目覚めると彼女はもういない、という場面で歌詞にも現れる。これを真に受けて、彼女が初めから鳥だったとしたらどうなるか、考えてみた。
彼女は主人公を、自らの棲家に連れて行ったのだ。となるとノルウェーの「木」が正解ということになる。樹木の上に作られた鳥の巣であれば、椅子がないのは当然だろう(風呂があるのが不可解だが)。次の日早起きするのも鳥の習性だ。最後の"I lit a fire"も、家に放火するのは罪が重いが、鳥の巣(しかも空っぽ)なら深刻ではない。ということで、題名も含めて筋の通った解釈が可能である(と思うのは私だけかな)。
もちろん、彼女が鳥だなんて、フィクションでありファンタジーである。鳥の巣に上り込んで何を期待できるというのか。ただ、ジョン・レノンが彼女を鳥にたとえていることは確かで、(欧米の詩にはよくあることかもしれないが、)普通の男女の物語に登場する彼女を鳥に置き換えることによって、詩の世界に変化を与えようとしたのではないか。そしてその結果、題名もNorwegian woodとなったのではないか。そうなるとあのディレクターも、それほど間違っていたわけではないということになってしまうが。